Ⅲ. 山城祥二とは何者か
Who is Shoji Yamashiro ?
本田 学
組頭・山城祥二こと大橋力は、周りからはなかなかその姿が見えにくい「謎の人」です。ここでは、いくつかの異なる切り口から、山城こと大橋の活性と人物像に迫ってみたいと思います。なお、さらに詳しくお知りになりたい方は、第44回ケチャまつりパンフレット、第44回ケチャまつりガイド、第45回ケチャまつりガイドをご覧ください。
山城の第一の特性として、そのアクティビティが、現代の自然科学と人文科学のいくつかの専門領域をカヴァーし、しかもそれぞれの分野において抜きんでたレベルの業績をおさめていることが挙げられます。詳しくは業績リストをご覧いただきたいのですが、例えば研究者・大橋力としては、人間には音として感じることのできない超高周波を豊かに含む音が脳と身体の健康を司る基幹脳を活性化する〈ハイパーソニック・エフェクト〉を発見し世界的な注目を浴びました。そして一方、アーティスト・山城祥二としては、アニメ映画『アキラAKIRA』の音楽でこれも世界的な人気を博しています。1個の頭脳がカヴァーするものとしては破格の広さと高さと言えるでしょう。これらに象徴される幅広い全方位型の活性とそれぞれの質の高さは、山城の大きな特徴と言えます。ただ、この活性は業績リストなどによって、比較的容易に理解することが可能です。
第二の特性として注目されるのが、山城は知的活動を加速する新しい「概念道具」を発明する天才であるということです。その典型例の一つが、山城の創った〈本来〉という生物学の概念道具です。地球上の生命はいずれも、それぞれの種が進化によって棲みついた環境を持っています。言い換えると、その環境で最も都合良く生きることができるよう遺伝子が進化したため、そこではあたかも〔鍵と鍵穴〕のような関係が成り立っています。こうした〔特定の生命種と特定の環境とが全面的に適合した状態〕を表す科学的概念道具として〈本来〉を発明しました。
一方、現代の生物学では、学習や経験を積み重ねることにより、元々できなかったことができるようになる〈適応〉現象が、専ら研究者の関心を集めています。「現代生物学=適応の生物学」と言っても過言ではありません。これに対して山城が発明した〈本来〉という概念道具は、「あるがままの生命とあるがままの環境とが美しく調和した生き方」を示すことにより、現代生物学が生み出した「生きることは、困難に耐え、努力し、克服し、自分を造り替えること」という偏った考え方から人類を解き放つ働きを持っていると言えます。その効果は、生物学の範囲に留まらず、世界観、生命観、人生観にまで広く及ぶものと言えるでしょう。
その他にも、〈もっとも貴いもの=地球〉〈情報環境〉〈プログラムされた自己解体〉〈生命文明〉〈利他の惑星〉など、山城によって発明された概念道具は、それが山城の発明であることを知らない人をも含め、多くの人の知的作業に量り知れない恩恵をもたらしています。山城が生み出すこうした概念道具に共通する特徴は、何か新しいものを捻り出すのではなく、埋もれている実体や真実を「掘り起こす」点です。掘り起こされるまでは誰も想像すらしないのに、いったん掘り起こされるとあたかも最初からそこにあったかのように、当たり前で自然に感じてしまうという大きな特徴を持っています。
そして第三の特性として、山城の身近で彼と一体化して長い年月行動してきた人間がしばしば目の当たりにする不思議な活性があります。少しオカルトじみていて、言葉で合理的に説明するのはなかなか難しいので、象徴的なエピソードを紹介します。それは、私たち文明科学研究所の研究チームが、人類発祥の地アフリカ、カメルーンの熱帯雨林で今も狩猟採集のライフスタイルを堅持するピグミーさんたちが、どんな環境の中でどんな暮らしをしているか調査している時のことでした。日本の何十倍もの面積をもつ密林で移動生活をしているピグミーさんに出遭うことは、グラウンドに落ちた1本の針を探すより難しいといわれています。そんな日々を送る2009年8月14日のこと、山城はかろうじて自動車が通れる道すがら見出した何の変哲もない1本の小径に注目し、「あの途の奥にピグミーさんのニオイがする」と突然言い出したのです。これには現地のコーディネータも驚いて、付近にピグミーの村があるとは聞いていないと断言したのですが、山城はゆずらず、後を追って2キロ足らずほど進むと、木立の間に葉っぱの家からなる集落が忽然と姿を現したのです。
実は、このときどうやってそれを見抜いたのか、山城本人にもまったく解っていないのですが、曖昧さは全く感じなかったとのことで、いわゆる「既視感(デジャブ)」とは異なるものでした。「途の探索」という〈未知〉の思考・行動の途中に、「正確な途」が〈既知〉の情報と区別のつかない状態で入ってきて置き換わってしまった、という理解不能な現象が顕れたのです。山城は、この不思議な脳機能に対して〈仮想既知覚〉という新しい概念道具を創っています。
こうした〈仮想既知覚〉が発揮された例は、山城のアクティビティのあちこちに観ることができます。たとえば、「耳で音として感じることができない高周波を身体の表面で感じている」ことを見抜いた実験や、生物が不適合な環境に遭遇すると、自らを解体して土に還す〈プログラムされた自己解体〉が地球生命に具わっていることを実証証明した実験などは、その典型例と言えるでしょう。特に後者については、この現象を鮮明な写真として捉えることに2002年に成功したのですが、それを遡ること15年前の1987年に、『科学基礎論研究』という科学哲学分野の学術雑誌に発表した「プログラムされた自己解体モデル」という論文の中で、その写真と寸分違わぬ仮想的な概念図を掲載しているのです。
このような山城の脳の働きの特性は、ホモ・サピエンスの「正常」な脳の働きとはいささか距離のあるものと言わざるを得ません。あたかも、三次元の世界ではまったく同じに見えるものが、四次元の世界から眺めると明瞭に違って見えるように、私たちが生きている現実世界の時空間を、より高い次元の時空間に写像するような脳機能と言えるかもしれません。それを「生理−病理」、あるいは「進化−退化」の軸のどこに位置づけるかは大きな問題ですが、少なくとも、経験や訓練、文化的な洗練などによって到達することのできるものではないと言えるでしょう。
とても厄介なのは、第四の特性として、以上のような特殊な脳機能を具えている山城が、どう見ても「普通の人」の佇まいをたたえていることです。ケチャまつりでミキシングコンソールを操作している山城をスタッフと勘違いして、道案内を請う人が毎年少なからずいます。さらに、その人となりを知る上で欠かせないのが、底なしの「気前のよさ」です。山城愛用のISSEY MIYAKEやGEORGIO ARMANIなどのお洒落な服を、それが似合うと見込んだ人に喜んでプレゼントするのです。モノだけでなく、たとえば原稿執筆では助言・指導にとどまらず、時には共同作業に近いかたちで手を入れ草稿とは見違えるほど徹底的に磨き上げるにもかかわらず黒子に徹し、組員の署名記事として公開させることも珍しくありません。こうした自分の人間性を本人は「自我の空白」と呼んでいますが、特に最近は、自分の生命活性が健全であるうちに、モノや知恵、情報に限らず、自分の中にしかない全てを、周りや社会にできるだけ還元しようという傾向に拍車がかかっているように見えます。このように、周りと自分を切り離さず、周りとともに自分も幸せになるという真のエコロジカルな発想が、山城という人間を魂柱のように支えているのだと思います。しかも、情が深く義に厚い。食いしん坊で美味しいものを見つける情熱と才能は当代随一。その結果、多くの人にとって、山城と自分との距離を実感しにくく、あたかも遠くの大きな山が近くに見えるように、手が届きそうなのに近づけば近づくほど遠ざかるのです。
現在の山城は、その各種生理指標は、主治医が「とても九十歳代とは思えない」と驚くほど良好で、体組成計が表示するいわゆる「体内年齢」は70歳代の値を示しています。それにも増して驚くのが、まるで時間が逆行しているのではないかと思えるような、「頭脳年齢」ではないでしょうか。今もなお新しい概念道具を生み出し続けるだけでなく、問題を解決するうえで決定的な「潮目」や「キープロブレム」、そしてその解決策を瞬時に見抜く技は、驚嘆の域に達していると言えるでしょう。こうした「頭脳年齢」を具えた山城こと大橋の存在自体が、年齢を重ねることを高齢化・老化という「問題」として捉えがちな現代文明に対する「行動する文明批判」そのものなのかもしれません。