ひとびと
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小泉文夫先生(1927年-1983年)は、日本の有力な音楽学者であり、世界的に高い評価を受けた民族音楽研究者です。地球上の諸民族の音楽を広く探求し、現地での収録につとめるとともに、何事も論理的、実証的に研究するという科学的な姿勢を貫かれました。また、音楽を通じて世界の多様な文化への理解の深化に取り組んでこられました。
小泉先生と芸能山城組との関係は、1965年頃、山城祥二と邂逅した時に遡ります。小泉先生は、当時、芸能山城組の前身となる「ハトの会」を指揮していた山城にブルガリア女声合唱を紹介し、1968年西欧ベルカント合唱からの脱出を実現する突破口を開いてくださいました。そして、バリ島のケチャとその社会のあり方を紹介してくださったことが1974年の芸能山城組誕生への導火線となりました。
また、芸能山城組の公演の監修や司会はもとより、山城組がまだ世に知られていない頃にテレビ、ラジオ出演の機会をつくり広く紹介くださるなど、芸能山城組にとってなくてはならない大恩人でいらっしゃいます。アマチュアの私たちを「向い風の荒野を独走する若者たち」と表現し自らを「花の応援団長」と称して成長を支えてくださいました。その教えとすばらしいお人柄は、今なお私たちの中に脈々と生き続けています。
小泉先生から寄せられた貴重なメッセージの一部を抜粋します。
(1974年1月「ケチャ公演」パンフレット)
この「ハトの会」が、バリ島の“ケチャ”に挑戦することとなった。もっとも火つけ役はこちらなので、私にも責任のある話だが、昨年につづいて、本年“ケチャ”の全編を本格的に上演するにあたって、この人間の組織の問題にぶつかった。それは当然といえば当然の壁だった。「社会が音楽のスタイルを決める」という原則からすれば、その壁はなまやさしいものであり得ない。日本人が西洋音楽を本当に吸収するために、戦後の社会的な体質変化が必要であったように、この産業優先社会に育った若者が、そのままの姿でどうしてプリアタン村の若者の芸能を演ずることが出来よう。
芸能は創造する。最も感動的なことは、社会が芸能を規定するばかりでなく、芸能が社会を変革し産みそだてる力をもっていることである。バリ島の“ケチャ”が「ハトの会」にもたらしたものはそれだった。
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