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2. 中村とうようさん

 中村とうようさん(1932年-2011年)は、ジャズ・ロックなど最先端のポピュラー音楽、ワールドミュージックなど幅広い領域において大きな功績を残した音楽評論家で、『ミュージック・マガジン』編集長として長年活躍されました。特に、日本でワールドミュージックという概念を広めた先駆者の一人として、アフリカ、南米、アジア、ヨーロッパなどの様々な地域の音楽を日本に紹介し、その文化的背景や歴史にも焦点を当て、従来の西欧中心の音楽観に対する新しい視点を提示しました。

 中村とうようさんと山城祥二とは長年の親友関係にあり、中村さんは、合唱団「ハトの会」が芸能山城組へと展開していく過程を目撃しながら、私たちがブラック・ミュージックやポップスに取り組むときの最大の助言者として、活動を応援してくださいました。

 音楽、芸術のみならず、社会性をもった中村さんの言論活動は、私たちにも大きな刺激となり、多くのことを教えていただきました。

 こうしたご恩をいただいた中村さんのお人柄と山城組との関係をご理解いただくために、以下のメッセージをご紹介します。


プロデューサーとしての初仕事 中村とうよう
(「地球」06 1976年1月発行)

 音楽評論家という看板をかかげ、他人が苦労して作ったレコードのアラをさがしたりケチをつけたりするのを商売にして、いい気でいることができるのも、ひとえに、あなた作る人、わたしケナス人、と割り切った立場に立っていればこその話。そのぼくが、何を間違ったか、今回は、作る人の立場にまわってしまった。

 もちろん他人の作ったレコードを聞いてるばかりではつまらないから、一度は、わたしも作る人、と言ってみたい気持は前からあったが、日頃えらそうなことを言ってる手前、あまりみっともないものを作るわけにも行かず、これまで制作側にまわるチャンスがつかめなかったのである。

 芸能山城組のリーダー、山城祥二氏とはかれこれ十年のつき合いで、いまの山城組が合唱団ハトの会と言ってたころから、自称応援団副団長(団長は小泉文夫先生)として、あれこれ注文つけたり、それこそアラもさがし、けなしもしてきた。そうして、このユニークな団体の成長をうれしく見守ってきたつもりである。

 ハトの会が芸能山城組と名をかえたころから、彼らはさらに大きく飛躍し始めた。ここらへんでそろそろレコードの吹込みもやっていい段階に来たのではないか、と判断し、ぼくのつき合っている数多いレコード・ディレクターの中から、ビクターの岩田くんに白羽の矢を立て、話を持ち込んだのが75年夏のことだった。その後トントン拍子に話は進み、ぼくの予想以上にビクターが力を入れてくれていることは、喜びにたえない。

 ぼくはこうして、プロデューサーとして初仕事をさせていただくことになったわけだが、プロデューサーといっても、音楽的な内容は山城組の自律性にゆだねているし、録音などのテクニック的なことはビクターの技術陣にまかせているし、ぼくのやることは、たくさんのすばらしい才能をうまくまとめて大きなエネルギーを結集させるための、まとめ役であり潤滑油であると思っている。

 そのまとめ方の狙いというか、エネルギーの方向づけとしては、たんなる異色合唱団の風変りな合唱レコードを作るというのでなく、これまで日本の音楽界になかったフレッシュなレコードを作って、広く音楽愛好者、ことに若い音楽ファン、日ごろはロックやフォークなど新しい音楽を聞いているヤングたちに聞いてもらいたいということに尽きる。そのためには、収録する音楽が、あふれる生命力とナウな感覚をもったものでなければならない。芸能山城組はそうした要請に充分に応えうるだけの力量と方向性をもっていると確信したからこそ、ぼくはプロデュースに乗り出したのである。

 いつもは内田裕也くんあたりと、ロックのバイタリティがどうのこうのとワメイているくせに、なぜロック・クループならぬ芸能山城組のレコーディングをプロデューサーとしての初仕事に選んだか、それはレコードのサウンドを聞いていただけば、なっとくしていただけるにちがいない。

 これまでさんざん人様のレコードを批判してきたぼくが、これでどうだ、と胸を張って世に問う自信作に、ぜひじっくり耳を傾けていただきたい。


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