I. 文明科学研究所について
About Bunmei-ken
4.文明科学研究所の先見性
三千年紀に入った地球社会が今まさに直面し狼狽している近現代文明の崩壊を、文明科学研究所は、草創以前の1970年代から的確に予見していました。そしてこれを克服するすべを実践的に模索してきたのです。そうした先見性を示す物的証拠として、1975年に創刊されて以来32号を重ねた雑誌「地球」があります。「地球」に掲載された主だったテーマを、当時の世の中の一般的な見解や動向と対比させて以下に紹介します。20年以上も時代を先どりしているこれらの記事は、文明科学研究所の存在理由を雄弁に物語っているのではないかと思います。
年 | 「地球」誌上での提言 | 当時の世の中の一般的な見解や動向 |
---|---|---|
1975年 | 「もっとも貴いもの」 (最高の価値を「地球」生態系として提唱)(地球02号) |
地球は無限。開発至上主義。 地球をひとつの生命体と捉える「ガイア仮説」(ジェームス E. ラブロック)の発表は4年後の1979年 |
1976年 | 「不純宣言」 (辻井喬氏と山城祥二による対談)(地球08号) |
純粋が善、不純は悪。 純粋芸術に価値がありサブカルチャーは価値が低い。機能は専門化した方がよく、ひろがっているのはよくない。 |
1977年 | 「分子生物学と芸能の邂逅」 (芸術の遺伝子決定論、渡辺格氏と山城祥二の対談)(地球11号) |
芸術はそれ自体の法則に支配される無限の体系。見たことも聴いたこともない新規なものほどよい |
1978年 | 「もっとも貴くないもの」 (地球生態系を蝕む「人間」をもっとも貴くないと提唱)(地球12号) |
人類は最高の存在、地球はそれに従属するのが当然 |
1979年 | 「DNAこそバイブル」 (人類の能力の有限性を示す遺伝子決定論の宣言)(地球19号) |
人間の能力には限りがない。限りない進歩発展こそ善 |
1979年 | 「文明の苦汁(にがり)-文化生態学のあけぼの-」 (川喜田二郎氏と山城祥二の対談)(地球19号) |
近現代文明を讃美 |
1980年 | 「80年代における文化と環境 『伝統と変容』ほか」伝統の再評価(地球20号) | 伝統は旧く悪しき存在だから否定すべき |
1980年 | 「情報という環境」(地球21号) | 環境を図る物差しは物質とエネルギーのみ。情報は意識の外 |
1980年 | 「今、なぜ祭りなのか」(地球22号) | 「祭りなんて野暮だ」「ダサい」 |
1980年 | 「情報環境の病理学」 (小田晋氏と山城祥二の対談) 「情報環境の破壊が現代の病理を導いている(地球22号) |
「環境は物質とエネルギーだ」 |
1980年 | 「西欧的一元論の終焉-1980国際価値会議をふりかえって」西欧一辺倒の文化と価値観の克服(地球23号) | 西欧文明を絶対視してこれを信奉する |
1981年 | 「快適環境の提唱」 「快適の生態学」 「現代社会の快適性」(下河辺淳氏と山城祥二の対談)(地球24号) |
効率、性能、速度など物理特性を優先。快適性は本質的でなくプラス・アルファの贅沢 |
1981年 | 「群れ創り学のロジック」ヒトは群れをつくる動物 (村上陽一郎氏と山城祥二の対談)(地球25号) |
共同体は悪しき旧体制。暴走族や校内暴力など“群れ”は悪の代名詞 |
1981年 | 「神と祭りの科学」 「神という制御回路」 「神のスタイル・人のスタイル」 「水と祭り-人類文化への情報環境学的アプローチ」 「臨床『神』理学」 (河合隼雄氏と山城祥二の対談)(地球25号) |
無神論がスタンダード 「今どき神様や祭りはないだろう」 |
1982年 | 「専門化社会に明日はあるか」(地球28号) | 「専門家にあらざらば人にあらず」「単機能のプロこそ正義」 |
1982年 | 「『人間もどき』教育課程」 人類の生物的な本来性に基づく人づくり(地球29号) |
単機能専門家を育てるのが近代教育 |
1982年 | 「科学と精神世界」 心の科学の提唱(地球30号) |
科学と精神とは別世界、切り離さなければならない。心は科学の介入を許さない。 |
1983年 | 「呪の科学」 「バリ島の生態学」(地球31号) |
祝祭や呪術は科学の敵 |
1984年 | 「記号中毒」(地球32号) | 記号論全盛「記号論者にあらざれば人にあらず」 |